高野商店の歴史
「道中細身定宿帳」に大黒屋の名前が記されている
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福井県南条郡今庄町にて「大黒屋」の屋号で代々旅籠を営む。
高野家三代・彦平、観道法師として今庄八十八ヵ所の霊場を開山。
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明治17年(1885)
宇都宮駅で握り飯2個とたくわんを竹の皮で包んで販売したのが駅弁の始まりとされる。(諸説あり)
明治22年(1890)
北陸線米原〜敦賀間開通
明治26年(1894)
北陸線第1期工事起工
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初代 高野亀之輔期(1896〜1918)
明治29年(1896)
7月15日今庄駅開業。敦賀〜今庄間は12本のトンネル、4ヶ所のスイッチバックが続く連続する難所であったが、眺望の美しさは鉄道唱歌にも歌われている。 高野家4代・亀之助、北陸線敦賀〜福井間開通と同時に、今庄駅ホームで売り子3人による弁当とお茶の立ち売りを開始。竹の皮に握り飯と漬物を包んだ弁当を5銭で販売。
明治30年(1897)
酒類、たばこ、果物、菓子等の販売と売り子二人増員が許可される
明治31年(1898)
新聞、雑誌、小説類の販売が許可される。
大正初めごろ
金沢出身の文豪・泉鏡花が大黒屋に宿泊し、北陸一の美人の娘がいたと旅日記にかかれる。
大正7年(1818)
高野家4代・亀之輔死去し、高野家5代・甚策が亀之輔を襲名する。
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二代目 高野甚策期(1918〜1924)
大正8年(1919)
高野家5代・亀之助が名古屋鉄道管理局から更新承認受ける。 今庄駅構内営業立ち売り営業のため、建造物設置の許可を得て、私設建物と雨落共二坪二合五勺の木造建築物を建造。
大正13年(1924)
高野家5代・亀之輔が48歳で死去したため、6代・光男が16歳にして後を継ぐ。
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三代目 高野光男期(1924〜1992)
大正15年(1926)
高野家6代・光男が名古屋鉄道管理局から営業更新の許可受ける。
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昭和初期
アマゴすし、鮎の姿ずしを20銭で販売。
戦時中
軍隊列車からの大量注文におわれる。
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昭和19年ごろ
太平洋戦争が激しくなり、玄米弁当の製造もできなくなり、サツマイモを竹の皮に包んで販売。兵隊だけは終戦まで白米を提供していた。
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昭和20年(1945)
終戦により、弁当販売が禁止される。代用品として、当時今庄でたくさん採れた柿や吊るし柿やリンゴを販売。吊るし柿は1本に50個ついたものを2本セットで毎日100セットほど売れたそうである。
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昭和21年(1946)
駅弁販売再開。折箱2段重ねで80円で販売。
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昭和30年ごろ
ツグミ弁当(20銭)が大当たりする。 山本周五郎作長編小説「虚空遍歴」に大黒屋が実名で登場し、昔の旅籠「大黒屋」の様子や今庄の雰囲気が描かれる
昭和34年(1959)
東京の高島屋で開かれた「全国うまいもの大会」にて駅弁が飛ぶように売れる。
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昭和37年(1962)
3月20日、北陸トンネル完成。 10月、弁当製造工場と家を大聖寺駅(石川県加賀市)裏に移設し、駅弁販売業務も大聖寺駅に移す。 大聖寺駅にて鯛寿しを販売。
昭和38年(1963)
38豪雪があり、除雪の自衛隊に施設と役務を提供する。
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昭和45年(1970)
特急停車新駅として加賀温泉駅(石川県加賀市)が新設開業したため、大聖寺駅から再度加賀温泉駅に移り、ここを本拠に駅弁販売を開始。
昭和48年(1973)
個人経営だった高野商店を轄v商店に組織改革。 かにすし、日本海すしを販売。
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四代目 高野哲次期(1992〜2000)
加賀温泉駅西口に新工場建設。送り弁当の最盛期を迎える
平成3年(1991)
加賀温泉西口に新工場を建設移転
平成4年(1992)
高野家7代・哲次が代表取締役社長に就任。
平成12年(2000)
高野家7代・哲次が死去。
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五代目 高野宣也期(1998〜)
北陸新幹線開業を控え、衛生管理、駅構内営業、車内販売など、営業形態が大きく変化した時代
平成18年(2006)
高野家8代・宣也が代表取締役社長に就任。 「加賀白山おったから弁当」発売
平成23年(2011)
雷鳥号が引退。「ありがとう雷鳥号 記念弁当」発売
平成26年(2014)
北陸トラベルサービス(北陸線車内販売会社)解散 「金沢三昧」発売
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